雨がよく降るせいか、庭の草花がぐんぐん育っている。
日本の梅雨のように、欧米では春が雨の季節だという。
雨のために外に出られず、イライラしている時に使われる表現がある。
「April showers bring May flowers」
(4月の雨は5月の花をもたらす)
今の辛い時期を我慢すれば、終った頃には何か良い結果がやってくる、と言う意味で使われるそうだ。
裏庭の木槿に花が咲き始めたのは6月に入ってからだった。
日当たりがあまり良くないので、上へ上へと伸びた我が家の木槿は、下から見上げても、花の姿はあまりよく見えない。
1階の屋根を越えて、空に向っていっぱいに開くピンクの木槿は、10月頃まで次から次へと、可憐で優雅な花を咲かせ続ける。
若い日に、木槿のことを、韓国では「無窮花」(ムグンファ)と言うのだと在日コリアンの友に教えられた時、「ああなるほど・・・」と思った記憶が蘇る。
≪…今日から7月。みずみずしい紫色のアジサイから炎天に映えるノウゼンカズラの朱色へ、そして燃えるようなヒマワリへと夏の花の主役も変わる。
人の心をつかむのは「大輪の花」ばかりではない。ハリウッドの虚飾と離れて九十六歳を生き抜いた、そんな女優人生に心を打たれる≫と、
6月29日に亡くなられたキャサリン・へプバーンさんへの哀悼を、通り掛かった家の庭先から漂うクチナシの芳香に寄せて、今日の日本経済新聞の「春秋」氏は、書かれている。
くちなしの花の残り香に、キャサリン・へプバーンさんを重ねた「春秋」氏の思いは、彼女を懐かしむ多くのファンに、共感を広めたことだろう。
花に寄せる人々の想いは、無数にあるだろう。
愛する人に贈る花、贈られた花、或いは別れを告げる花。故郷に咲いていた花、旅先で見た花など、花との出会いは人生とどこか重なる。
花言葉を生み出したように、価値観や感情表現、あるいは希望等、花に託す想いは世界共通なのだろうか。
我が家の裏庭の塀越しに見える隣家の枇杷の木が、一段と高く伸びていて、実をいっぱいつけている。
日々大きくなる枇杷の実を目当てに、小鳥たちがやってくる。
我が家の庭に目を移すと、小さな花は連日の雨にも倒れることなく咲いている。
大輪のボタンやカラーなどは、雨を受けると重さに耐えられなくなり、折れたり、花をすぐに落としてしまう。
毎日のように降りつづける雨の中でも、風に揺れながらも、咲き続けている小さな花々。
花にも意思があるのだろうか、それとも、自分の意思を、人は花に託すのだろうか。
もしも私が花だとしたら、どんな花を咲かせられるだろう・・・。